滋賀県は、「通ったことならあるけど降り立ったことはない」――そんなふうに言われる県の一つだ。
たいていの場合、これは滋賀県を「見どころのない県」として揶揄する意図をもって語られる。
僕としては、そうはは全く思わないし、むしろ魅力はたくさんあり、そのことをもっと知られるべき県であると日頃から思っている。
とはいえ、この「通り過ぎる県」というレッテルは、実は滋賀県の本質を言い当てているのではないか。そんな思いも、僕の中にはある。
古くからの交通の要衝
滋賀県、かつての近江国は、古来より交通の要衝としての役割を担ってきた。
古代の律令制下においては、東山道・東海道・北陸道といった主要官道がこの地を通過し、東西を結ぶ交通の動脈となっていた。
戦国時代には、「近江を制する者は天下を制す」と言われるほど、地政学的にも重要な土地だったという。
そして江戸時代には、東海道と中山道という五街道のうち二つが、草津宿(現在の滋賀県草津市)で合流し、近江の交通上の重要性はいっそう際立つこととなった。
その他にも、若狭から京都へ海産物などを運ぶ「鯖街道」や、琵琶湖を横断して物資や人を輸送した「大津百艘船」など、地域の暮らしと結びついた交通・流通の歴史も枚挙にいとまがない。
人気のある観光地と比べれば、滋賀県は「イメージの薄い県」として見られがちかもしれない。だが、「交通」という視点からこの地を見直してみれば、非常にユニークな県であることが見えてくる。
明治の鉄道と滋賀
とりわけ興味深いのは明治時代だ。明治は文明開化の時代であり、同時に鉄道の時代でもある。
1880(明治13)年には、京都~大津間が開通した。後に東海道本線となる区間であり、東西の両京を結ぶことが悲願である明治政府にとって、非常に重要な区間であった。
このときに掘削された逢坂山トンネルは、工事の全工程を日本人の手で成し遂げた、いわば“国産初”の鉄道トンネルでもある。お雇い外国人の力を借りずに成し遂げられたという点で、土木技術史的にも意義は深い。
1884(明治17)年には、長浜〜金ヶ崎(現在の敦賀港)を結ぶ鉄道が全通した。鉄道には人の移動だけでなく、物資の輸送という重要な役割も求められており、港と接続する路線は優先的に整備されていった。
この路線は、のちに北陸本線の一部となるが、もともとは東京と大阪を結ぶ幹線「中山道鉄道」の建設資材を、日本海側から運び込むことを目的に敷設されたものだった。

ところが、山岳地帯を多く含む中山道経由は、工事の困難さから計画が中止され、最終的には東海道経由が幹線ルートとして選ばれることになる。
とはいえ、米原付近を通すことで、この長浜〜金ヶ崎間の鉄道は資材運搬線としてそのまま活用することができた。
そして、東海道本線はその後の1889(明治22)年、新橋〜神戸間が全通する。最後に開通したのは、関ヶ原〜米原〜馬場、すなわち滋賀県内を通る区間であった。
では、それまではどうしていたのかと言えば、琵琶湖を横断する水上輸送が利用されていたのである。
このとき活躍した「太湖汽船」は、日本で最初の鉄道連絡船とされており、これまた非常に滋賀県らしいエピソードだ。
なお、東海道本線が全通した1889(明治22)年には、米原~長浜も接続され、日本海側と太平洋側の鉄路がここに結ばれた。

滋賀県の本質と逆説
現在においても滋賀県には東海道新幹線、名神高速道路と、交通の大動脈が通じており、交通上の要所としての役割はまったく衰えていない。
だが、交通の要であるということは、裏を返せば「通過される場所」になりやすいということでもある。そういう意味で、「通り過ぎる県」というレッテルは、皮肉にも滋賀の本質を突いているようにも思えるのだ。
この日訪れた『長浜鉄道スクエア』は、かつて水陸交通の一大拠点だった旧長浜駅舎を保存・活用した資料館であり、現存する日本最古の鉄道駅舎でもある。
「通り過ぎる県」であったからこそ生まれた、ある種の逆説的な観光資源――そう捉えることもできるのかもしれない。
